今は昔、百寿者が珍しかったころの物語だが、私が診ていた、その当時すでに九十歳を越えておられた患者さんの話である。
その方は、歯がすべて抜け落ちてしまって、食事も柔らかくしたものだけ食べておられた。ある時、入れ歯はお持ちではないのですかと尋ねると、次のように答えられた。
歯が抜け落ちるということには、それなりの意味があると思います。
多分、この齢になると胃腸の働きも、若い頃と同じではないのだと思います。
そんな状態で、若い頃と同じようなものを食べようとすれば、胃腸をこわしてしまいます。
歯が全部抜けたということは、これからは歯がなくても食べられるものだけを食べるようにと、神様が仰っておられるのだと思います――と。
私はそれまで、歯が抜けることの意味なぞ考えたことはなかった。
齢をとればやって来る、いささか悲しい結末の一つとしか思っていなかった。
日常の診療の合間に交わしたほんの些細な会話だったが、深い知恵を授けられた気がして、とても嬉しくなったことを思い出す。
もちろん自分の歯を一本でも多く、少しでも長くもっていたいという希望や配慮が大切なことに変わりはないが、高齢の先輩からは、しばしばこのような賢者の言葉を聞くことかできる。
視点を変えて考えてみるということの大切さは、こうした言葉から教えられたものである。
岩田 誠
(婦人の友社刊『明日の友』201号、2012年12-1月より)