家の近くの大きな公園を犬と散歩していると、小さなストックまがいの棒を両手に持って、脇目もふらず、そこのけそこのけと猛然と歩いて来る中高年者の集団によく出会う。
恐れをなした犬と私は、散歩道の脇によけて、この集団をやり過ごさねばならない。
その度に私は、その人たちが気の毒になる。
散歩するなら脳を使わなければ大損なのに、彼らは脊髄と筋肉しか使っていないからである。
脳を使った散歩によって、思索や創作に励んだ人は多い。
ベートーベンの「運命」も、カントの『純粋理性批判』も、散歩から生まれた。
ゆっくりと歩を進める間に、散歩者は多くの物事に出会う。
垣根に咲いた沈丁花の香に春を感じ、木々の間から聞こえる鳥の囀りに姿を探し求め、道端に落ちている小さな手袋の片っ方を拾い上げて、それを落とした子供の泣きべそ顔を思いながら近くの柵にそっとそれを掛けておく。
時には、知人に出会い、話に興じることだってあっていい。
思いがけないこととの出合い、これこそが、脳を使う散歩の意義なのだ。
有酸素運動か知らないが、少なくとも中高年者にとって、脊髄以下の運動系しか使わないような散歩は、私からみれば、まったくもってエネルギーの無駄遣い以外の何物でもない。
散歩者の方々よ、今日からはゆっくりと歩こう。目と耳と鼻と、そして手の触覚を使って、出会う物事のすべてを逃さぬように散歩する。それが脳を使う散歩であり、心の豊かさを感じとることのできる散歩なのだ。
岩田 誠
(婦人の友社刊『明日の友』202号、2013年2-3月より)