認知症という用語

脳の病気によって知的能力が低下していく状態は、従来は「痴呆」と呼ばれましたが、現在では「認知症」と呼ばれるのが普通です。
これは、従来の用語が、差別的な偏見を助長しているということから、最初は行政用語として使用されるべく決められた用語でしたが、いつの間にか医学専門用語としても使用されるようになりました。
しかし、「認知症」という用語は、日本語の通常の用法から言えば間違った表現です。
日本語における「症」という言葉は、元来、「~の状態」という形で使われます。
「失語症」は言語能力を失った状態ですし、「健忘症」は忘れやすい状態、といった具合です。
「症」には、もう一つの使われ方もあります。
それは、「脳症」「網膜症」「腎症」などのように、ある器官の働きが障害されたことを表す使い方です。
このような従来の使い方に従うなら、「認知症」なる用語は、「認知する状態」あるいは「認知という器官の働きの障害」を意味することになりますが、「認知症」なる用語が表現すべきものは「認知能力の障害」なのですから、明らかに日本語の通常の使われ方とは違っています。
もし「認知症」が認知能力の障害を意味するのでしたら、「不妊症」は「妊娠症」としなければならないのです。
それだけではありません。
軽度の健忘のみが目立つ状態は、「軽度認知障害」と呼ばれ、その中には将来アルツハイマー病に進展する方々が含まれていると考えられていますが、そういう方では、「軽度認知障害」が進行していくと「認知症」になっていくということになり、言葉の表現として極めておかしなことになってしまいます。
かつて、中国からの留学生にお願いして、日本在住の中国人40名ほどにアンケート調査をしたことがあります。
質問は、「痴呆という用語には、偏見、差別感を感じますか?」「認知症という用語は、漢字表現として適切と思いますか?」の2つです。
第一の質問に対しては、ほとんどの人から「痴呆」という用語には、偏見や差別を感じるという回答をいただきましたが、「認知症」という用語に対しては、用語として不適切であるという意見が半分、ソフトでよい表現だという意見が半分でした。
漢字の本国の人たちの間でも意見が分かれたのは少し意外でしたが、少なくとも半分の方はおかしな表現だと思っておられるようです。
ちなみに、台湾では「失智症」という用語を使っています。
これは極めて当を得た良い表現の言葉だと思います。
漢字を使用しているのは日本人だけではないのですから、漢字文化圏全体を視野に入れた、国際的に通用する漢字表現を目指してほしかったと思います。
とはいうものの、多くの人々が差別感を感じる用語は使いたくありません。
その結果、私自身の使用する用語としては、一般の方々向けには「認知症」という用語を使用することにしましたが、医療従事者向けの表現や、科学的な討論の場では、英語のDementiaをそのまま日本語にした「デメンチア」という用語を使っています。

岩田 誠